また一人ヒーローが逝ってしまったか。
訃報に際し、スポーツ紙はもとより一般中央紙においてもトップ扱いで一通りの報道・追悼が
過ぎたけど、やはりニュースバリューとしてはアリの社会的活動 (政治的反抗によるライセンス
剥奪、宗教的帰依からくる痛切な表現等)の方が大きかったか。
アリやボクシングに興味のない方にはクソ面白くない話になる。そして、脈絡ない思いつくまま
の乱文も、ただヒーローを思う小僧に戻っただけの話しなのだ。
ヘビー級タイトルを奪った(試合前まではカシアス・クレイ)ソニー・リストンとのリターンマッチで
1R返り討ちにしたシーンは衝撃だった。パンチの余りの速さにヒットした瞬間を捉えたカメラマンは
誰もいなかったため、ダウン後のこの構図が後に広く象徴的に使われることになった。(ビデオでさえ
スロー再生でないと当たった瞬間がわからなかった。因みにサージェントペパーのジャケットで最前列に
いるガウン姿のボクサーはこの人)
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アリはローマ五輪の金メダリスト。故国に栄光をもたらしたはずがレストランで肌の色を理由に入店を
断られ、失意のあまり川に金メダルを投げ捨ててしまう。一人歩きしてしまったこのこのエピソードも
有名であるけれど真相は紛失によるもの。「そんなもったいない事するわけないじゃないか」と、後年
親しいジャーナリストに漏らしている。
“ スーパーファイト ” とか、“ 世紀の一戦 ” などとうたわれ始めたのもここからでなかっただろうか。
徴兵拒否によりチャンピオンベルトを剥奪されてからカムバックし、マジソンスクエアガーデンで
フレイジャーに挑んだ一戦だ。無敗同士のヘビー級タイトル戦は,ボクシング史上初めてのことだった。
結果アリ初の敗戦、3年半のブランクは大きすぎた。最終R、フレイジャーの左フックにダウンした瞬間
ショック死した人が出たほどだった。当時小学生だった。新聞の見出しは「クレイ神話に幕」だったのを
憶えている(まだアリ、クレイと呼称が併用されていた)しかし本当の神話はここから始まるとはこの時
知る由もなかった。
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その後二度の対戦を経て(アリの2勝1敗)時は流れ、両者が平穏に語り合うドキュメントフィルムも
散見したけど、フレージャーは最後までアリの自分に対する数々の暴言を心底許していなかった。それが
アリお決まりの興行用営業トークとは知りながらも許容の範囲は超えていた。「火の中へ落っこっちまえ」
はアリがアトランタ五輪で聖火台に点火した時の弁。晩年、身内には病気に冒されたアリのものまねまで
披露していた。死闘を終えた引退後は、世間の求める美しい友情物語とはいかなかったようだ。
そして、ヘビー級王座に再び返り咲いた “ キンシャサの奇跡 ” はもはやアリの「超能力」を感じ
させたファイトだった。フレイジャーを6度マットに這いつくばらせ、僅か2Rで粉砕したフォアマン
は全てがケタ外れだった。正直、この規格外のモンスターに今度ばかりは敵わないと(誰もが)思った。
アリの一撃に半周回ってキャンバスに崩れ落ちたフォアマン、歓喜にわきかえるテレビ画面に胸を
撫で下ろした。 この時32歳になっていたアリ 「世界のボクシング評論家は俺にひれ伏して謝れ」ー
はい、謝りました。なんせKO負けを見届ける覚悟をしていましたものですから。
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フォアマン戦後、10度の防衛を果たしキャリアとしてはベルト剥奪前を凌ぐ記録を残したけど、
ボクサーとしてのピークは遠い彼方にあったことは否めない。寸分の贅肉もない張り詰めたスリムな
ボディーは、良くも悪くもいつしか重量感を醸し出していた。これは意見が分かれるところだけど、
“ Thriller in Manila ” と命名された対フレイジャー因縁の第三戦(全キャリア終える15試合前)でもてる
力を使い果たしたと見る専門家は多い。勝利後の疲労度、壊れかたは尋常ではなく憔悴しきった表情に
沈みゆくマニラの夕陽を重ねアリの終焉を見たと報じた記事が印象的だった。確かに精彩さを欠いた
それ以降は全て余計な試合だった。三度目の王座返り咲きとなったスピンクス戦ですら言ってみれば
フルマラソンを終えたランナーが翌日レースに臨むようなものだった。それぞれのファンには申し訳
ないけれど以後の対戦者はその程度にすぎなかったのだ。(異論は認めるけど聞く耳は持たない)
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一連の報道にボクサーとしての戦歴にフォーカスしたメディアはなかった。浅はかで仰々しくも
視点のずれた論評も少なからず見受けられたけど、今日、葬儀に限られた著名人が棺に手を添えた
ニュース映像にはもう哀しみがこみ上げるだけだった。アリよ永遠に、合掌。